「人間は意味の領域に生きている」
アルフレッド・アドラーの著書、『人生の意味の心理学(岸見一郎訳 アルテ)』はこの言葉で始まります。
「生きる意味」、「人生の意味」というものがわからずに苦悩し、「暗いトンネル」の中に迷い込んでしまった、その当時40代の中高年サラリーマンの私にとって、この本は自分の人生を大きく逆転させるきっかけとなりました・・・。
と、いう文章で、拙書『鳴かず飛ばずの中高年サラリーマンが、アドラーの「人生の意味の心理学」を通勤電車で読んだら・・・』(デザインエッグ社)は始まります。ご興味あれば、ぜひ電子書籍をお読みください。
さて、今回は、3回にわたって、アルフレッド・アドラーの著『人生の意味の心理学』について、解説していきたいと思います。
「人生の意味の心理学」解説のストーリー(目次)は次の通り。
「人生の意味の心理学」解説のストーリー(目次)
Ⅰ.『劣等感』について・・・
①人類発展の原動力は劣等感
②個人の成長の原動力は劣等感
Ⅱ.『目的論』について・・・
①決定論と目的論
②生き方は「トラウマ」に関係ない
Ⅲ.『ライフスタイル』について・・・
①虚構であり有用であるライフスタイル
②早期回想とコモンセンスからみるライフスタイル
Ⅳ.『共同体感覚』について・・・
①私的論理と共同体感覚
②社会的に有益な人のパーソナリティ
③かけがえのない仲間
Ⅴ.『人生の課題』について・・・
①取り組むべき3つのライフタスク
②交友の課題、仕事の課題、愛の課題に共同体感覚は欠かせない
Ⅵ.『勇気づけ』について・・・
Ⅰ.『劣等感』について・・・①人類発展の原動力は劣等感
アドラーはいいます。
「人間はおしなべて劣等感を持つものである。しかし、これ自体は決して悪いことではない。重要なのはこの劣等感をいかに扱うかなのである」
アドラーを学ぶ人の中には、アドラー心理学を「劣等感の心理学」と呼ぶ人もいるほどで、アドラー理論の中では、“劣等感”がそのポイントのひとつであることに違いはありません。
アドラーはいいます。
「人間が本来的に群れるようにできているのは、他の動物の生命力と比較した場合にわかる(生物学的)劣等性を補うためである」
アドラーは、人間は生物学的劣等性を持つ動物であり、その劣等性をカバー(補填)するために集団(社会)をつくったといっているのです。そして、劣等性をカバーする領域は、生物学的劣等性のみにとどまるところを知らず、道具や言葉を生み出し、さらに、知性が発達すると、「死」に対する劣等性(感)から、哲学や宗教、芸術や文化を生むところまで広がっていったのです。
アドラーはいいます。
「実際、私には、われわれ人間すべての文化は、劣等感情に基づいているとさえ思えるのである」
アドラーは、人類全体の劣等感が、人類の発展につながったのだと考えていたのでした。
②個人の成長の原動力は劣等感
アドラーはいいます。
「われわれは劣等感を過剰に補償しがちである。これを過剰補償と呼ぶ。建築家アントニ・ガウディのサグラダ・ファミリアも過剰補償のひとつの事例かもしれない」
アドラーは、劣等感が必ずしも「正の方向」に作用するわけではなく、「負の方向」に作用することもあると考えていました。この現象は劣等感を過剰に重視する場合に起こるもので、「劣等コンプレックス」とアドラーは呼んだのです。
アドラーはいいます。
「劣等コンプレックスに基づく過剰補償は、極端な自己の利益の追求へと向かう。劣等感の補償は共同体への貢献の方向に向かわせるべきなのである」
劣等感は決して不健全なものではなく、大切なことは、劣等感が「負の方向」に作用した「劣等コンプレックス」に陥らないことなのです。
アドラーはいいます。
「悲観的にならずに楽観的に考える。これが劣等コンプレックスに陥らない極意なのである」
物ごとを楽観的にとらえるか、悲観的にとらえるか。その違いによって、結果は良くも悪くもなると、いえるのでしょう。
Ⅱ.『目的論』について・・・①決定論と目的論
アドラーはいいます。
「もし、この世で何かをつくるとき必要な、建材、権限、設備、そして人手があったとしても、目的、すなわち心に目標がないならば、それらに価値はないと思う」
アドラーは、人が生まれつき持っている素質よりも、それをいかなる目的に従って、どう使うかに注目しました。
つまり、「うまくいかないのは素質のせいだ」という「負の方向」の劣等感ではなく、「うまくいかないのは誤った目標のせいではないか」「素質の使い方を間違っているのではないか」という「正の方向」の劣等感で、その目標(目的)につなげていくのが、『目的論』というものなのです。
一方で、『決定論(原因論)』というものがあります。
それは、世の中の出来事を“原因”で説明づける論理です。「Aが起こった原因はBにある」と説明づけされるものです。(『目的論』は、人の行動はその人が持つ目標や目的に従った結果である、と説明づける論理です)
アドラーはいいます。
「重要なのは素質でなく、自分が持っている素質をいかに使うかである。『いかに』を考えるには目標が必要になる」
アドラーは、目標がなければ、有用な行動も生まれないものだと考えていたのです。
②生き方は「トラウマ」に関係ない
アドラーはいいます。
「いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック、いわゆるトラウマ(外傷)に苦しむのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって、自らを決定するのである。そこで、特定の経験を将来の人生のための基礎と考えるとき、おそらく、何らかの過ちをしているのである。意味は状況によって決定されるのではない。われわれが状況に与える意味によって、自らを決定するのである」
アドラーは、『決定論』と反対の立場を表明しています。それは、トラウマであっても、その人の行動の原因にはならないと断言しているのです。
次の行動をどのように選択するかは、あくまで自己の自由です。選択に影響を及ぼす要因は数多くあれど、その要因がその選択をさせたのではありません。意思決定したのはあくまでも自分自身なのです。このように考えると、他者に責任転嫁できる『決定論』は、苦悩を手軽に取り払うための方法であるということが言えるのかもしれません。
一方で、『目的論』は、他者に責任転嫁できないので、本人にとって厳しい論理だと言えそうです。
アドラーはいいます。
「背景に一般的経験またはトラウマがあろうと、何らかの行動を選び結果に至るのは、人間の意思によるものである」
選択する自由が自己にあるということは、幸せに生きるか不幸せに生きるか、どちらをとるかは自らに依るところである、ということです。
まとめ① アドラーの言葉
・「どんな能力をもって生まれたかはたいした問題ではない。重要なのは与えられた能力をどう使うかである」
・「劣等感をすっかり取り除くことはできません。なぜなら、劣等感は、パーソナリティ形成の有用な基礎となるからです。しなければならないことは、目標を変えることです」
・「すなわち人間の精神生活というものは、目標によって規定されている」
・「われわれが直せるのは、彼の具体的目標だけである。目標が変われば、精神的な習慣や態度も変わるであろう。もはや古い習慣や態度は不要になり、彼の新しい目標に適した新しいものが古いものにとって代わるであろう」
次回は、『ライフスタイル』『共同体感覚』についてお伝えしますね。
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