今回は、レオ・バスカーリア作(みらい なな訳)の「葉っぱのフレディ ~いのちの旅~」 より紹介します。
葉っぱである「フレディ」が、自分という存在に氣づき、成長し、「変化するって自然な事なんだ…」と自己受容していくお話です。
「変化すること」は「永遠の命」へとつながるということ。そのことを、葉っぱの「フレディ」と「ダニエル」の会話を通して、わかりやすく語りかけてくれます。
「変化しないもの」はひとつもない
主人公のフレディは、春の日に大きな木の枝に生まれた葉っぱです。春、夏と楽しく過ごした葉っぱたちに、やがて秋、冬が訪れます。そこで「死」というものを考えはじめるのです。
「死」を恐れるようになったフレディに、親友の葉っぱであるダニエルは次のようにいいます。
「まだ経験したことのないことはこわいと思うものだ。でも考えてごらん。世界は変化し続けているんだ。変化しないものはひとつもないんだよ。春が来て夏になり秋になる。葉っぱは緑から紅葉して散る。変化するって自然なことなんだ。きみは春が夏になるときこわかったかい?緑から紅葉するときこわくなかったろう?僕たちも変化しつづけているんだ。死ぬということも変わることの一つなのだよ」
「死ぬということも変わることの一つ」
葉っぱのダニエルはそういいます。
人生を全うしていく中で、実は自ら変化しつづけている
自然の大きな流れの中で、全ては変化していく。それは人間とて同じことです。なにもかもが、ずっと同じではいられないのです。
アメリカの精神科医であったエリザベス・キューブラー・ロスは、人生には「喪失」という要素がついてまわるといいます。
「われわれのほとんどは、人生が喪失であり、喪失が人生であることを理解せずに、喪失に抵抗し、それと格闘しようとする。喪失は人生で最も苦しいレッスンのひとつではあるが、人は喪失なくしては成長できず、喪失なくして人生を変えることはできない」
キューブラー・ロスのいう「喪失」するものとは、「変化したことで失う変化前の状態」のことです。私たちは、人生を歩んでいくうえで変わり続けています。そして同時に、何かを失い続けています。
変わることで楽しいこと、うれしいこともあれば、変わることで悲しいこと、辛いこともあります。しかし、それは、人生においてバランスの取れたこと(トレードオフの関係)なのです。
「いのち」は永遠に生きている
フレディは、続けてダニエルに質問しました。
「この木も死ぬの?」
ダニエルは言いました。
「いつかは死ぬさ。でも“いのち”は永遠に生きているのだよ」
「いのちは永遠に生きている」とダニエルはいいます。ひとつの葉っぱとして見ると、「いのち」は尽きてしまいますが、遺伝子は受け継がれ、そのつながりは続いていきます。また、たくさんの人の記憶に残り続けるのです。
・・・と、いう考え方もあるかと思います。しかし、
もっと大きな「全体のいのち」が存在している
ここで、イギリスの哲学者であったフランシス・ベーコンの次の言葉を検証してみたいと思います。
「すべてのものが変化するのは明らかだが、実際には消え失せるのではない。物質の総量はつねに同じだ」
その言葉と、葉っぱのダニエルの「死ぬということも変わることの一つ」という言葉を重ね合わせて考えるとすれば、次のような仮説が成り立つのではないでしょうか。
「死んでも実際には消え失せてしまうものではない」
ひとつの葉っぱとして見ると、「いのち」は尽きてしまいます。しかし、もっと大きく木の全体を見ると、「いのち」は一つひとつという考え方ではなく、もっともっと大きな「全体のいのち」が存在しているのではないか、という観点へ行き着きます。
葉っぱのフレディは、冬になって地面に舞い降りていくとき、大きな木の全体の姿を見ます。そして、枯れ葉となったフレディは、やがて土に溶け込んで、大きな木を育てる力になるのです。
まとめ
絵本の最後に、次のような記載があります。
『大自然の設計図は、寸分の狂いもなく「いのち」を変化させ続けているのです』
「いのち」は、一つひとつ存在しているのはではなく、大きな「全体のいのち」から借りているものであって、いずれは元の「全体のいのち」へと還るものなのだ、と考えることもできそうです。(その還る場所のことを“ゼロ・ポイント・フィールド”と呼んでいる説もあるようです。“ゼロ・ポイント・フィールド”については、また別のブログで取り上げたいと思います)
【サン・テグジュペリ(フランスの作家)の言葉】
「一滴の水が、どうして己を大河と知るであろうか?だが、大河は流れているのだ。樹木を作る細胞の一つ一つが、どうして己を樹木と知るであろうか?だが、樹木は伸び広がっているのだ」
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